
【障害やひとり親で困ってる人を救いたい】楽しく生きる障害者☆ひでのりとは?
みなさん、こんにちは! 楽しく生きる障害者☆ひでのりです!!
社会福祉事業を行う【Hide a grin-club】の代表をしています!
PCやIT系の悩みを解決するブログ「HIde a grin club - witten by hidenori」も運営しています!!
私自身、左足の膝から下がマヒしている障害者です。病名は、多発性神経炎です。
そんな私がなぜ、社会福祉事業を始めようと思ったのかお伝えしようと思います。
サラッと読めるように書いてみたので、ぜひ最後までご覧ください!!
健康で元気に暮らしていた20代まで
小学校時代まで
1980/11/04に山形県で、4200グラムでうまれました。
とにかく外で友だちと、暗くなるまで野球をしたり、自転車で競争したり、ミニ四駆をしたりと活発に過ごしていました。
小学校のクラブ活動では、探検クラブに入り放課後はそこらじゅう探検していました。
雪が降ると、クロスカントリースキーで山に探検に出かけ、ジャンプ台を作りジャンプの真似事をしてスキー板をよく折りました。
中学校時代
野球部に所属して、野球ばっかりしていました。
足が少し早かったので、陸上部と掛け持ちしていました。種目は110mハードル。
朝練で陸上をして、午後からは野球をしていました。
高校時代
高校では、とにかく目立ちたがりな性格なので友達とバンドを組んで文化祭や
地域のイベントに参加していました。
生徒会では、応援団長に立候補してみんなを応援していました。
社会人になって
社会人になっていろんな仕事に就きました。
飽きっぽいわけではなく、なぜか運悪く、会社が傾いたり、実家に戻らなくてはならなくなったりでいろんな業種を経験しました。
中でも営業では、いろんな知らない場所でいろんな人と話すことが出来て貴重な時間でした。
製造職では、お金を作っているのと同じ機械で同じように作業できたり、会社が傾いたので最後は課長と自分の2人しか現場にいなかったりでなかなか楽しかったです。
林業では、国有林に入り大きな杉の木を1人で切り倒し、紙の原料としてや建築資材として生産していました。
自然相手の仕事なので、大変でしたが四季も肌で感じられてとてもやりがいのある仕事でした。
体に異変が現れる

そんな林業に精を出している時に、今まで病気らしい病気はしたことがなく健康には自信があったのですが、急に足に違和感がありました。
最初は痛みだったのですが、だんだん痺れに変わっていき、踏ん張ることが難しくなってしまいました。
林業なので毎日険しい山道を、重い荷物を持って現場まで行かなければいけなかったので、初めて病欠休みをもらって病院に行きました。
しかし、いろんな検査を受けても原因がわからずに病院を転々としました。
最終的に大学病院に二度長期入院して、やっと神経の難病だということがわかりました。
病名は多発性神経炎だそうです。左足の膝から下が、マヒして動きません。
松葉づえ無しでは、自力で歩けなくなりました。入院中は、いろんな治療も受けました。
ステロイドパルス療法(ステロイドを大量に投与して神経に刺激を与える)は、ステロイドを点滴で入れるのですが、入れた瞬間から体の中が火照り、全力で走った後のような感覚がずっと続き夜もほとんど眠れなくなりました。
毎日睡眠薬を処方してもらい、飲んだ時は眠くなるのですが看護師さんが見回りに来る気配で起きてしまい結局はほとんど眠れませんでした。
肌もガサガサになり、私にとっては非常につらい治療でした。
その次の段階では、免疫抑制療法(ガンマグロブリン療法)を受けました。
この薬は、自分の免疫を抑制するので風邪など感染症にかかりやすくなるのでマスクを一日中着用しなければなりませんでした。
肌が荒れていたので、マスクの耳ひものところが切れて痛くてたまりませんでした。
それと並行して、リハビリも毎日行いました。足首などの間接が固まってしまうと大変なので理学療法士さんにストレッチしてもらい、電気刺激を受けてから必死でサイクリングマシンを漕いでいました。
まるで競輪選手になった気分でした。
でもそのおかげで、片方の杖だけで歩行することが出来るようになりました。
社会的弱者の救済事業を思い立つ

この日本は、社会福祉の面では非常に進んでいると思います。
金銭的な面、就職する場合などなどいろんな制度があり私も利用しています。ですが、それらを利用するには自分かまたは代理の方が出向いて申請をして審査されなければなりません。
私も何度となく、移動で苦労しながら役所に足を運び大変な思いをしました。冒頭に書いたようなこともありますので、このような思いをする方をできる限り減らしたいと強く思うようになりました。
しかし現状では、金銭的な余裕があるわけでもなく、仕事もしているため時間も限られています。
そんな中でも何か社会的に弱い立場にある方の援助をするにはどうすれば良いか考えています。今はこうしたいろんなデバイスで簡単に日本だけではなく、世界の人にまで繋がることが出来ます。
なので、まずは情報発信に力を入れて、皆さんの知恵を借りながら私ができることを見つけたいと思いつきました。
職業訓練でパソコンスキルを身に付けて
職業訓練でパソコンスクールに通い、パソコンのスキルを最低限身に付けました。少しずつ操作できるようになると、これがまた楽しくどんどん次のこと次のことと学びたくなりました。
職業訓練では、本当に基本的な部分のカリキュラムでしたが先生の許可をもらい授業中に一人独学で上のレベルの学習をしていました。
障害者雇用での求人に応募する
そんな学習のさなか、ハローワークから連絡があり障害者雇用の新しい求人が出たとのことですぐ面接させてもらえることになりました。
そこは、地元でも有名な電気工事の会社の事務補助の仕事でした。いざ面接に行くと、私の為にわざわざ本社の幹部の方、事務の方含む10人の面接官に面接をして頂きました。私は、まさかそんなに面接官がいるとは思わなかったので久しぶりに緊張しました。
1時間ほどの長い面接をして頂いて、意気揚々と結果を楽しみに帰りました。その後2日ほどして、携帯に会社の人事部長さんから電話がありました。そして言われた言葉に驚愕しました。
「今回は申し訳ないのですが、あなたは重いファイルなどを移動したりできないでしょうから不採用ということで…」
一瞬頭が真っ白になりました。あんなに面接で、障害の内容を話し具体的な仕事内容を説明されその一つ一つできるか確認していったはずなのにまさかのファイル…。
障害者専用求人のはずなのに、どんな人を想定していたのか非常に疑問でした。本当に実際は、厳しいんだなと改めて感じました。
楽しかったスクールを卒業
楽しかった3ヶ月はあっという間に過ぎ、無事に通い続けることが出来ました。おかげで、Excel・Word・Accessの検定も取ることが出来、パソコンスキルが身につきました。
本当に充実した3カ月間でした。
無事に校務補助員に採用される
スクールを卒業後、またハローワーク通いが始まりました。しかし、最初とは違いパソコンが使えるようになったので、求人検索の幅も増えました。
そんな時、高校の校務補助員という募集が2つの高校から求人が出ました。その一つはなんとも偶然に私の母校だったので、即座に応募しました。
卒業生だと、ハローワークの方にもアピールしてもらい面接が決まりました。そして懐かしい母校に面接に行くと、当時の先生方がまだ何人もいらっしゃって非常に温かく迎え入れてもらえることになりました。
本当に仕事が決まるのがこんなに嬉しいとは思いませんでした。
このように苦しい期間を乗り越え、何とか今現在母校で校務補助員として働いています。本当に感謝しています。
社会的弱者の方の就業支援としてネットショップを立ち上げる

私を含めた社会的弱者の方には、コミュニケーションがなかなか難しく働きたくても働けない方が多くいます。
そこで、ネットショップであれば完全在宅で人と直接接しなくても社会と繋がることができるので就業支援になると考え
【WindooR-hid(ウィンドアハイド)】というレディースアパレルのネットショップを立ち上げました。
それと並行してこちらのWindooR-hid Blogでは、美容や健康ダイエットなどの情報を発信しています。
ひとり親の方のお悩み無料相談窓口を開設

私自身がひとり親として、2人の娘を育ててきた経験から何か役に立つお手伝いができればと思い
LINEのオープンチャットにて「ひとり親の悩み相談」を開設しました。
こちらは匿名でもちろん無料で気軽にお話が出来るので、多くの方の相談やお話しをしています。
今ではいろんな専門家の方や、いろんな経験をされている方とも繋がれているのでさらに幅広い相談に対応できるようになりました。
ぜひ自分だけで抱え込まずに、打ち明けてみませんか?
話をするだけでも、心が軽くなり前向きになる方がたくさんいらっしゃいます。
最後に
ここまで私の半生や、今までの経緯を書いてみました。
まだまだそこまで社会に貢献できるような実績は少ないですが、少しでも困っている方の手助けをしたい!!
その強い思いで、日々SNSやブログなどで配信もしております。
みんなが楽しく、暮らしやすい社会の実現の為にこれからも努力していきます!!